やっぱりGPLはオカシイよ

なんか最近、文章を書く事すらおっくうになって、適当にリンクだけ張ってコメント書かない記事ばっかりです

「後で書くので、とりあえずリンクだけ」とか言いながら結局やらないことばかりで、書きたいことが頭のスタックにどんどん積まれている状態ですが

今回は、何の因果か指の方がスラスラと躍ってくれたので、久しぶりに長文です

先日、Leafのゲームプログラム中に、GPLライセンスのコードが含まれていたため、ソースコードを公開、というお話がありましたが、今回はこれと関係があるような、それとも無いようなお話


最初に言いますが、私はGPL懐疑論者です。正直オープンソースという考え方は大いに賛同しますが、GPLライセンスには大いに疑問を感じます。

それこそ数年前から「おかしいよな、やっぱおかしいよな…」が頭の中をうごめいていたのですが、最近になってようやく、それを形を整えて言語化できるようになってきました

正直情けないお話ですが、私はこれを説明するのに、私は法的にとか、経済的に十分な知識を持っている自身があるわけではありません。

もしかしたらもう既に、これと全く同じ内容の事を、誰かが言っているかもしれません(私の知る範囲では見た事は無いから書くのですが)

それでも、今回は指が動いてしまいましたので、それでも書いてしまいます


まず最初は企業のお話です。あたりまえの事ですが、企業は通常、商品を消費者に販売する事で利益を上げます

そして、それこそ米司法省が認める某独占企業とかだったりしない限り、普通、企業には競争をしているライバル企業がいます

ソフト産業では、商品とはすなわちソフトですから、他の企業より売れるソフトを作らないといけません。ですからプログラマを雇って機能の追加を行って、商品の差別化を行います

ここまでが話の前提です

さて、ここで仮に、そう仮に「GPLライセンスのプログラムを書き換えて、商品を作っている企業」がいたとしましょう

その企業が、商品を改良したとしても、元々のコードがGPLですから、そのコードは最終的に公開を行わなければなりません

最終的に、せっかく追加した機能はあっさりコピーされて、商品の差別化は行われません

商品の差別化ができないなら、企業はせっかく開発コストを使っても、利益が出ませんから、最終的に企業はGPLライセンスを使いません


ここで一つの結論が出ます


企業にはGPLのソフトを書き換える事にメリットが無い


次の話に移りましょう、特許のお話です

特許というのは、そのそもそものおこりは、オランダで風車の新技術を開発したものに、利権を与えたところと言われています

つまりは、そもそも特許というのは、技術の研究開発を推進するための生まれた仕組みです

さて、研究をするには人件費を含めて、大概の場合なんらかのコストがかかります。もちろん、自分一人がガシガシやっていれば良い世界もありますが、良いソフトを作るのに必要な研究は、そういうモノだけではありません

ならば、何処かで研究開発費を回収するための仕組みというのは必要ということになります

さて、ここで研究成果を元にソフトを一つ書く場合、下敷きにGPLライセンスのついているソフトを利用する事になったとしましょう

当然、こうなれば書かれたソフトも当然GPLになっていますから、ソースコードは公開しないといけません

ソースコードが公開されていますから、後にそれを商品化しても、既にソースがそこらじゅうに転がっているソフトに誰もお金なんか払いません

結局、研究費を回収する手段が無いということになり、研究そのものを続けられなくなります


ここで、一つの結論が出ます


GPLは研究開発の資金を得るためには邪魔


GPLの開祖、ストールマン自身は著書で、結局特許なんてあっても、大企業の武器にしからならないからクソ、みたいな事を書いていました

ですが、研究が必要な以上は、研究資金を回収する仕組みというのは、何処かで必要なのです


次の話に移りましょう、多分経済の話(?)です

社会の中では、常にお金が動いています。お金は、世の中の価値を繋ぐための潤滑油として有効に働いています

例えば私たちは、お金と交換でモノを手に入れたり、お金と交換でサービスを受けたりします

それでは、時代を大昔に戻しましょう、お金の普及していない時代では、海で取れた海の幸を、山の中に持っていって山の幸と交換を行いました、物々交換というヤツです。

つまり、互いに交換できるモノは、お金とその他のモノだけではないということです

さて、それでは、このような交換というのは実際成り立つのでしょうか?

「お金」と「名誉」の交換

つまりは、金で名誉は買えるのかと言うことですが、ここでは傲慢ですが「当然買える」と結論づけます

社会で生きている以上、人間は日々、仕事をすることで日々の糧を得ています。つまりはコレを言い換えると、労働力とお金を交換している事になります。

それならば、お金と名誉が交換可能ということにしたのですから、このような交換も可能を考えられます

「労働力」と「名誉」の交換

つまりは、オープンソースに貢献することで、人々から尊敬されるという理屈です。こういう見方をするなら、オープンソースは単純にソフトウェア共産主義というわけでも無いわけです。

さて、ここで前の話を一つ掘り返しますが、企業はGPLライセンスのソフトを書き換えてもメリットがありません。最終的にGPLライセンスのソフトを書き換えるのにお金を出す企業は何処からも出てこないことになります

つまりはこのような弊害が予想されます


GPLライセンスのソフトをいじっても、労働力と賃金の交換が出来ない


長い話をしていますが、GPLの弊害についてはあと2つ残っています。ですが、そしてどちらも短くて、とってもわかりやすいのでちょちょっと着いてきて下さい

まずは一つめ


万人が名誉とか奉仕の精神とかを餌に、貴重な労働力を提供してくれるわけではない


私は世の中そんな聖人君子ばかりであるとは微塵も思っていません

労働力を名誉と交換することも良いですが、金でしか動かない人間もいるのです

そして、私はそのどちら側のチカラも、バランス良く得るべきだと説く人間です


そして2つ目です


フルタイムでプログラムという仕事に関われる技術者は、一定数必要だ


一つ言い切っておきますが、プログラムを良く設計できることや、美しいコードが書けると言うことは間違いなく技能です

そして、良いプログラムを得るためには、それとフルタイムで関われる高い技能を持った人間が度々必要になります

そのためには、何処かからお金を得て、その技術者を雇わないといけないのです


ここまで延々とGPLの弊害を話してきましたが、ここからが折り返し地点です

GPLの普及は悪いことだけではありませんでしたよね、ここからはそういう話


まずは一つ目

先ほど、オープンソースの世界では、労働力と名誉の交換が行われていると言うことを書きましたがさて、ここで起こっていることを角度を変えて見直してみましょう

つまりは開発コミュニティの外の世界の人からの見方です。

外の人からみれば、そこで起こっている事というのは、作業している人達の苦労の過程をすっとばして、タダでソフトが一本出来ていることになるのです。

何も交換しないでソフトができあがっている、まさしく現代の錬金術です

最終的に、人々は安く(もしくはタダで)ソフトを手に入れることが出来ます


そして2つ目です

ミクロ経済学では、企業というのはできるだけ多くの企業が常に競争し合っている状態が望ましいとされます

しかし、実際の社会では、最終的に数社程度の大企業だけが生き残り、その他の企業は何らかの理由で淘汰されて消えていきます

(例えば、大きな工場を造って大量生産すれば、安く商品を売れるので、大きな工場を用意できる大企業以外は競争に敗れる、等)

ソフトの世界では、新規参入をするのに、莫大な開発費を投じないといけなくなるなんてのがあります

もう少し具体的にいうなら、今更Wordや一太郎のライバルを作って、新規参入したがる会社はないなんてのが代表ですね

しかし、仮にオープンソースのコードを改良して、それを商品化することが出来たらどうなるでしょう?

低い開発費で、改良した製品を送り出すことが出来、多くの企業が参入することで、市場では良い競争状態がおきます

Linuxの世界で、数多くのディストリビューションが登場した事などは、その一例と言えるでしょう


このように、GPLライセンスにはメリットもデメリットもあるのですが、私から見て、GPLはやはりオカシイです

もともとGPLの、ウィルス条項は、XWindowsSystemのソースが非公開になってしまった事が原因ですが、私はこう思います

企業の開発力を十分に取り込め無いことの弊害は、コードの公開を義務づけない事の弊害より大きい

私の主張はこの1点に集約されます。

正直、オープンソースは社会にとって有益です。語るべき利点が数多くあります。

でも、世の中っていうのは、カネのチカラも、企業のチカラも借りれないで、上手に回れるほど良くは出来ていないはずです

そういうことで、オープンソースライセンスの主役はGPLではなく、CPL等のもっとバランスの取れたライセンスであるべきだと思います

投稿者 baban 2005/12/17 at 03:01

no comments no trackbacks

コメント

(leave url/email »)

前のコメント